創立者・星野芳樹について
| 年 | 月 | 日 | 事 項 | |
| 1909 | 3 | 30 | 東京下谷区にて出生。本籍は父光多の出身地群馬県利根郡利南村大字戸鹿野(現沼田市戸鹿野町)697−1で、光多は当時両国教会牧師で日本キリスト教界の指導者の一人として活動していた。母みねは光多が横浜フェリス女学校教頭時代に同僚であった。1891年7月15日に結婚。芳樹が生まれた時父50歳、母41歳であった。家族は兄二人姉一人とアメリカ留学中の父の妹がいて、芳樹が3歳の時帰国、母校の津田英学塾の教師になった。長兄直樹は、後に東大を出て大蔵省に入り満州国総務長官時代、時の首相東条英機に請われて帰国国務大臣を勤めた。戦後A級戦犯として獄につながれた。釈放後はダイヤモンド社会長、東急ホテル社長となった。次兄茂樹は東大で土木工学を学び鉄道省に入りトンネル建設の第一人者として清水、丹那、関門各トンネルを手懸けた。すぐ上の七歳違い姉花子は津田卒業後アメリカ留学、ミシガン大学教授の日系二世山極越海と結婚、そのままアメリカに永住した。 | |
| 1915 | 4 | 0 | 東京市立小日向台小学校入学。 | |
| 1921 | 4 | 0 | 私立早稲田中学校入学。 | |
| 1926 | 3 | 0 | 同校卒業。 | |
| 1928 | 4 | 0 | 旧制静岡高等学校文科甲類入学 野球部入部、選手制度に疑問を持ちストライキを起こす。 |
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| 1929 | 0 | 0 | 共産党系の社会科学研究会の友人と交友が始まる。 同校3年在学中。思想運動に関係して逮捕され、放校処分を受ける。 |
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| 1930 | 7 | 0 | 同校退校。 | |
| 1932 | 7 | 7 | 父光多、永眠。 長兄直樹、満州へ赴任。 |
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| 1933 | 6 | 00 | 大阪で非合法活動中逮捕される。実刑5年未決通算700日の判決を受け大阪北刑務所に下獄する。獄中母方の従妹羽太巴の面会を受ける。その後図書の差し入れ、激励の手紙を貰う。 豊多摩刑務所に移される。 7年間の獄中生活中に語学、特にエスペラント語や科学関係の本が読めた。初歩微分積分から理論物理学の書物、アインシュタインの一般相対性理論、プランクの量子力学まで原書で読み学の何たるか知り得たと思い、社会思想をこの科学知識で見直した。 マルクス主義は資本主義の病理現象を鋭く分析した結果、マルクス主義は歴史的には認められるが、それ自身も病理現象を伴っており、これらの分析排除が必要でその限界を知ることが肝要であると悟る。 またこの期間、多くの共産主義者といわれる人々が転向していった。芳樹はこれらの転向者とは根本的に違い、当時の日本政府が中国への武力侵入していることを批判、反対していた自分が、ここで転向という政府に謝罪を乞うのは筋が通らないと非転向を貫いて満期まで獄にいた。この獄中で養った精神的エネルギーがその後の活動の基になったと後年語った。 さらに海外での多くの知友を得られたのも獄中の思考が役立った。 |
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| 1934 | 1 | 0 | 羽太巴、奈良女高師(現奈良女子大学)付属実科高等女学校英語教師に採用される。 | |
| 1939 | 3 | 00 | 羽太巴、芳樹と結婚のため退職して上京、落合に一人でいた芳樹の母と一緒に住む。 | |
| 1940 | 2 | 24 | 紀元二千六百年祭の恩赦で、満期より一ヶ月位早く出獄する。 巴と結婚、時に芳樹31才、巴29才。 国外へ行こうと計画をたて満州国経由で上海に向かう。 途中ソウルで後に南北統一の星と呼ばれた呂運亨と語り合った。 |
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| 1941 | 7 9 11 |
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上海で華興銀行の鷲尾氏の紹介で上海自然科学研究所の助手となる。その間中国語を学ぶ。 夜間日本語講習会を開き、ここで多くの中国の友人が出来た。 上海市公平路に中国人児童のための容海中学校を創設、1945年8月15日敗戦の日まで同校を経営する。 自然科学研究所を退職。 この容海中学校の設立と経営は精魂傾けた最初の事業であった。当事の中国人は上下共日本を憎悪していたので、将来日中両国民族友好のためには憎んでいるが日本の科学技術に一目置いていることが解った。そこで容海中学校で自分でも教壇に立って数学と物理を教えた。 1945年には小中併せて370名の生徒が在籍していた。後事を託して引き揚げる時、盛大な送別会を開いてくれた。 1981(昭和56年)3月、35年ぶりに上海を訪れた時、迎えてくれた7人の内4人が高校の理科と数学の教師になっていた。 |
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| 1944 | 1 | 28 | 一子「楊」、生まれる。 日華親善の功により大東亜省より内山完造、頓宮博士と共に表彰される。日本政府が中国に対しそれまでの強圧政策を「日華共甘同苦」の政策に改めたためである。 |
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| 1945 | 12 | 0 | 日本敗戦後本国に先立って、在上海日本人居留民の間で総選挙を行い、代表委員30名を選出し日本人自治会を作る。帝国政府領事館が解散したため、その業務を自治会が引き継ぐ。その代表議員の一人として、宣導部の教育班を担当帰国まで勤務する。 | |
| 1946 | 5 | 0 | 日本に帰国。津田塾塾長の叔母星野あいの家に一時身を寄せる。 | |
| 1947 | 2 | 0 | 未帰還同胞帰還促進連盟を組織、東京支部長として全国運動の中心となって活動する。当時革新政党も熱心でなかったソ連に抑留されている同胞の帰還促進を要求する市民運動であった。数寄屋橋で21日間の断食をしたのもこの時であった。 第一回参議院議員の選挙に全国区より立候補し、3年議員に当選。労働者農民党に属す。 |
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| 1948 | 3 6 9 11 |
25 5 |
家族と共に沼田に引揚げ、以後住居を沼田に構える。 巴、群馬県立沼田女子高校教諭の職を得る。 「共産主義卒業の記」土佐書房より刊行。 「上海路地裏の人々」世界社より刊行。 |
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| 1949 | 0 | 0 | 巴の母れん、同居する。 | |
| 1950 | 4 | 0 | 参議院議員任期終了。 | |
| 1952 | 11 12 |
0 | 母みね、永眠。 仏教、キリスト教の有識者を集め、宗教者平和連盟を組織、これと労働組合 幹部との話し合いを設営して平和促進国民会議を作る。しかし、容共派の人 たちと意見が合わず離れる。 |
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| 1953 | 2 | 0 | 仏教団体のインドへ農業技術者を送り届ける通訳兼付き添いとして僧衣で渡 航。30万円の貧乏旅行であった。 節約した旅費でビルマのラングーンで開催されたアジア社会党大会にオブザ ーバーとして参加、アジア・アフリカ諸国に多くの知友を得る。 この間、インド、パキスタン、アフガニスタン、ネパール、スリランカ、ビ ルマ、マレーシアを広く周遊し、ラングーンの会議で知り合った人々を起点 に多くの人々と知り合い、深い議論を交わした。 |
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| 1954 | 11 | 0 | 兄直樹が静岡新聞社の大石光之助社長を紹介してくれ、同紙に一週間に一度かこみ記事を書き同社の論説委員になる。 | |
| 1955 | 1 | 0 | 姪百合子(直美長女)、同居する。 | |
| 1957 | 5 12 |
27 | 義母れん、永眠。 同社海外特派員として取材活動を委託され、費用2000ドルで半年間アジア、アフリカ諸国をめぐる。この時初めてアフリカを訪れる。以後静岡新聞社時代のアフリカ取材は19回に及ぶ。 |
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| 1958 | 4 | 0 | 利根沼田水泳協会設立する。 この地方にまだプールがなく利根川で泳いでいたころから多数の少年少女を水泳を通して訓育した。沼田中学水泳部が県内優勝10回、その後もしばらく利根沼田の中学が他都市に優勝旗を渡さなかった歴史を作った。訓育の方針はあくまで個人の選手を育てる事でなく、団体の中で助け合ってみんなが伸びるという原則をとおした。「小父さん」の名前で慕われ、1979年70才で一時帰国の際、誕生会を沼田で開いた所、水泳協会の関係者を中心に96名もの人が集まり歓迎してくれた。 |
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| 1959 | 1 | 0 | 「アジア・アフリカ紀行」講談社から出版る。 | |
| 1961 | 4 | 0 | 巴妹直美、沼田へ転居。 | |
| 1967 | 4 | 0 | 楊、群馬県公立学校教諭に採用沼田西中学に奉職。 | |
| 1969 | 3 | 0 | 楊結婚。 | |
| 1970 | 3 4 |
31 | 巴、沼田女子高校を退職。 静岡新聞主幹に任ぜられ、静岡新聞社に常勤する。 静岡に家を建て妻と転居する。 静岡大、静岡薬科大、東海大海洋学部の学生有志を集め、静岡青年海外事情研究会を作り、毎年冬と春の休暇を利用して4名ずつ東南アジアと韓国の安値旅行の手ほどきをした。もっともそれ以前1964年に娘の楊を学生時代にタイのバンコックまで呼び寄せ、インドのカルカッタまで行を共にし、その後は500ドルを持たせて突き放し、一人旅させたことがあった。娘は40日間各地を歩き回り、香港、台湾までも足を伸ばして帰って来た。しかも120ドルを余して。 この経験から若者を海外に出すことの意義を知った。 |
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| 1971 | 0 | 0 | 「バングラデッシュ独立の経過を通して世界政治の裏をのぞく」を静岡新聞社より刊行。 | |
| 1972 | 12 | 5 | 幼児のころから家族同様だった叔母星野あい永眠。 兄茂樹永眠。 |
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| 1974 | 1 3 11 |
10 2 16 |
静新聞社定年退職、住居をケニア、ナイロビに移す。 過去20回近くの海外取材で一番気に入った土地であった。娘も独立、安心して妻と此処を永住の地と定めた。 静岡の家を処分し、その他自己資本を投じて土地、家屋を購入した。此処から静岡新聞に論説を送ると掲載してくれた。ケニア国ナイロビ市に「日本アフリカ文化交流協会」設立の準備を始める。 上記の協会がケニア政府から認可される。 |
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| 1975 | 1 4 |
1 7 |
「ナイロビだより」第1号発刊、各地に送る(200部余りから段々増え後に700部ぐらいを自分で表書きし送った)。 日本アフリカ文化交流協会(ケニア・スワヒリ語学院、星野スクール)は第1回留学生として6名を受け入れる。 この学院はナイロビの中心より僅か2キロ、キリマニ(丘)の樹木の緑と静かな環境の一画にある。日本人にスワヒリ語、英会話、アフリカの政治、経済事情、文学、歴史、芸術等を取得する機会を与えるために、又ケニア人とケニア居住の外国人に、日本語の教育をするために開校されたアフリカ唯一の教育施設である。開校当初より門扉を持たず、人種の間に壁をつくらぬ交流を奨励するため、通称「星野スクール」と呼ばれ多くの人たちに親しまれて いる。 当初NHK放送文化基金及び財界からの補助もあり、1975年の第1期生より1979年の第8期生までは(社)アフリカ協会による募集と送り出しであったが、第9期生以後の留 の募集・選考・派遣は、この協会の日本事務局で行なわれている。 第1期生授業開始。 1988年3月ナイロビを引揚げる時には、日本よりの留学生は第24期生に達した。 第1期と第2期は学習過程を1年としたが、第3期からは半年としたため、1年に2回学生 の受け入れ、1期の定員を12名としたので、総数で270余名が学んだことになる。 このほかに、ケニアの人々に対する日本語学習講座を設けたが、これは延べ211名、またケニア在住一般外国人のためのスワヒリ語講座は延べ320名の学習者があった。 |
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| 1976 | 4 | 0 | 第2期生受入れ。 第2期生より日本人留学生は毎期卒業式の際、スワヒリ語を用いて何か劇を演じる伝統が生まれ、必ず実施している。半年前までスワヒリ語を全く知らなかった青年が自分たちで劇の台本をつくり、スワヒリ語に直し、舞台装置、衣装も作って演じることは、ケニアの官民にひとつのミラクルとして評価されたいる。 |
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| 1977 | 3 | 0 | 「アフリカ古人今人」第1号発刊。 | |
| 1978 | 5 | 29 | 兄直樹、永眠。 ブロンズ社より「アフリカの指導者」刊行。 |
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| 1982 | 1 4 |
25 | 1982年迄に160名の留学生を迎える。ケニア在住外国人のスワヒリ語講座は320名ケニアの人々への日本語講座は211名の学習者があった。 読売新聞夕刊の「人」欄で4回にわたって紹介される。 |
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| 1984 | 7 8 |
0 | 「アフリカ古人今人」第87号で終刊する。 このころは留学生引率のため、妻巴と交互に帰国する以外他国に行っていなかったが、従妹(窪田てい)の娘婿浅羽満夫が隣のタンザニア大使として赴任して来たので、久しぶりに近くに来た親戚に会うためにオンボロの愛車でダルエスサラームへ出かけた。ナイロビ、ダルエスサラーム間の標高差1800メートル、距離1000キロの完全舗装とはいえない悪路もある長距離運転。 帰途車がえんこしたり、悪路にはまったりで散々な目に遭ってやっとのおもいでナイロビに帰って来た。このため体調を崩し静養を余儀なくされた。 |
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| 1985 | 2 9 11 |
0 | 学生引率のため帰国中に入院す。 「ナイロビだより」第119号で終刊となる。 日本とアフリカの文化交流の功により叙勲、勲三等旭日中綬章を、妻巴は勲五等宝冠章を授 与される。 日本アフリカ文化交流協会の事業としてスワヒリ語学院を始めて10年間、卒業生も20期230名を超えた。 |
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| 1986 | 6 | 0 | リブロポート社より「星野芳樹自伝」刊行。 この書物でも一貫して真の革新とは何か?と問いかけている。スターリンのソ連帝国主義の破綻を予見していた。さらに北朝鮮については、民主主義の萌芽さえ見られず、独裁者金日成が偽者であると言及している。彼によれば、彼が7才の時に朝鮮に金日成という指導者がいて日本帝国主義に反抗して白頭山で日本軍と戦った英雄として朝鮮民族に仰がれていた人物がいた。 戦争が終わりソ連軍が平壌に入った時、これが金日成だと連れて来た男は彼より年が3つ若いことがわかり偽者だと直感した。この男の政権下で優秀な人物がずいぶん粛清されてい る。朝鮮が日本に支配されていた時、頑強に抵抗し独立運動をした人たちが北朝鮮に帰ったけれど反乱罪で処刑されている。現に従妹と結婚した東大出の金斗鎔も帰国後消息がつかめないでいる。 |
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| 1987 | 1 | 7 | 姉花子、永眠。 アジア・アフリカ文化財団主催、第5回「アジア・アフリカ賞」を受ける。 |
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| 1988 | 3 | 5 | 故郷沼田に引揚げ、療養生活に入り再起をはかる。この時スワヒリ語学院は第24期生が修了、卒業生数は270名に達していた。後任を第6期卒業の上田栄一氏に託す。 | |
| 1990 | 1 | 23 | 義妹羽太直美、永眠。 | |
| 1992 | 5 6 |
31 6 |
心筋梗塞のため沼田脳神経外科病院で永眠。 日本基督教団沼田教会で葬儀・告別式挙行、同教会メモリアルパーク内の墓地に納骨。 |
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| 0 | 勲三等旭日中授章正五位を受ける。 | |||
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著者
星野芳樹
星野芳樹
著者 星野芳樹
ケニヤッタ大統領&星野芳樹